Memento mori

じいちゃんが死んでもうすぐ1ヶ月が経つ。今夜は満月なんだろうか。やたらに泣きたくなるのはなぜだろう。じいちゃんを尊敬とすこし疎ましくも思っていたうちにとって時間は切々と流れていく。いっしょに住んでたばあちゃんとおさなさんにとって、この1ヶ月、どのように時間が流れたのだろう。
じいちゃんが死んでもうちは生きてるし、この世界もなくならない。でも確実にじいちゃんはいないし、骨になって、骨壷の中にあるのとそれ以外の部分はあの火葬場の庭に埋められている。じいちゃんは自分から何も発しなくなった。でもたまにうちの中に現れる。同じ時間に、お母さんやおばあちゃん、いとこたちの中にも現れているのかもしれない、そうであってもおかしくない。
あのとき、初めて骨の砕ける音を聞いた。それは高温で焼いたかたいけど脆い、ウエハースが折れる音に似たかわいた音がした。そこに現実はなかった。
皮のついた肉体からかわいた骨へと、あまりに早すぎる変容に、それがじいちゃんとは思えなかった。おさなさんは「グロいね」といってたけど、うちはなにがグロいのかわからなかった。こことここは擦れ合わない。これは「Before⇒After」ではない。だからといってうちのなかで皮のついたじーちゃんはまだ生きているとはいえない。
うちは日々進化する介護ロボットや癒し系と呼ぶロボットを喜んで受け入れられない。人は歩けなくなったら死ぬ。そこで「愛」が登場したって、人間は自分から死を快く受け入れることはできる。じーちゃんの死はうちが受け入れるべき死の一番身近なものやった。本当はもっとたくさん身近にそこここにあるにちがいない死の出発点になる。自分の死と他人の死は違うもんなんやろうか。

「方生方死、方死方生」(荘子