kummi2007-12-16

日常の延長としての旅。

 出発までの長い長い前置き
旅とは旅行とは、日常とは断絶した側面に接線をもつものであるという認識をしていた。今回の旅はそれを覆すものであった。「旅とは他者の日常を生きること」と人類学者はつぶやいた。他者になることが必要なのだと思っていた。自分のままでは獲得するものがない、とも。もとより脆弱な観点である自己になんの確証もない。「これが私だ」と証明するものもない。(戸籍やパスポートのことを言ってるんじゃないよ)ただ単に「危険な思いをするほうが得るものが多い」と思い込んでいたわけでもない。貧乏旅行なのは今回も同じだ。「発見や驚きがないといけない」と思っていたのだろう、自己の変革を迫られるような緊迫したものがないといけないと思っていたのだ。
しかし今回、自らの地平の延長上に他者を、旅を、感知することが可能なのだと知った。他者の中に、滑り込むように自らの存在を滑らかに、ごく自然に立ち上らせることが可能なのだと知った。あるいは、ルアンプラバンという土地が人が、私をそういう立場に置いたというほうが自然かもしれない。
ラオスと聞いて人は何を想起するだろう。「仏教国」「微笑みの国」使い古された表現だ、ステレオタイプの表現にはもともと関心がない。そこに生きる人が見たい、生活が知りたい。
そもそものきっかけは、10月国慶節休暇に合わせてヤンゴンバガンをめぐるミャンマー旅行を計画していたが、その直前に旧首都ヤンゴン反政府運動が起こり(実際には8月にすでに一回起こっている)、日本人報道記者が政府の軍人に射殺されたことでマスコミが異常に騒ぎ、外務省が追随し危険情報レベルを引き上げ、「NHKは過剰な報道をしている、現地は比較的落着いていて、デモ現場以外は普段どおり」と話していた現地旅行社とはメールのやり取りが途絶え、「ネットが政府によって寸断された」とマスコミが騒ぎ、やっと旅行社から返信が来たかと思えば「マーケットが機能していない、午後は外出を自粛している状況」と書かれており、チケットを頼んでいたHISに「行くのであれば署名が必要」と渡航確認書を渡された。「なんじゃこりゃぁ」である。そもそもがお気楽旅行である。ヤンゴンの名所シュエタパゴダの横にホテルを取り、朝からでもパゴダに参りに行き、涅槃仏といっしょに寝ることが夢であった。(まだ果たされていない)中3日ほどは中部バガンへ飛び広大な遺跡群をチャリンコで回る予定だった。アメリカ主導の反政府運動だとか、結局は大国の利権争いの結果として描かれるこの反政府運動は1週間してほどなく収束を迎えた。上記のような報道記事の中に生身の生活を送る人を感じることは出来ない、残念なほどに。
さかのぼること9月12日、大学時代懇意にしていた友人が亡くなった。理由はわからない、いまでも彼女のアドレスや電話番号はそこかしこに残る。葬儀には行った、死に顔も見た(安らかな寝顔だった、丁寧に化粧を施された顔は生前より綺麗に見えた、あんなにきれいな死体は見たことがない、思えば年老いて病気で亡くなった死人しか見たことがないのだ。)、火葬されるであろう姿も見送った、それなのに実感はわかない、ただ彼女ともう二度と話すことはないのだという未来だけが残った。彼女は2007年2月に卒業旅行と称してミャンマーヤンゴンを訪れている。葬儀直後は、ミャンマーに行くことで「死に彩られた旅」は避けられないという思いから行くのをやめようとも思った。しかし、符号が調子を合わせることもあるものだと、彼女の最後の旅先をこの眼で今じかに見ることが出来るのだと思い直していた。それほどに魅力のある土地であることに間違いない。ヤンゴンは近いうちに訪ねようと思っている。
さて、ラオスである。この国の概要はなんとなく知っていた。学生時代に東南アジアをめぐる旅行を計画したこともあって(結果的には頓挫したのだけど)なぜか自分がこの国に異常に固執したことも覚えている。ベトナムカンボジアには戦争という生々しいイメージが常につきまとう。ポル・ポト政権を生み出した素地を抱える国には行きたくない。その意味では完全に不勉強・盲目がもたらす憧れなのだけど、ミャンマーラオスにはなぜか惹かれていた。
ミャンマー行きを断念せざるを得なかった私は、それでもどうしてもどこかへ行きたかった。昨年から今年にかけての台湾行き以来、旅していない。旅はすでに自分の中の安定剤の役割を果たしている。要するに現状へのガス抜きである、あまりいい方法とは思えない。その意味では非現実だ。自分にとって、キツイ状況を続けるのはいいことではない、いつかボロが出るし、知らず知らず何かが確実に破綻していく。消費型資本主義社会の快感原則に乗れない私は、非現実の中に一瞬の安定を得る。和平で顔面にイレズミのある老婆を見つけたのに、直後に会社を辞めて聞き書きに行ったりしないことに慢性的な疲労も覚えていた。彼女が認知症であったことも食指の動かなかった原因のひとつだけれども、前々から自分の村の中での扱われ方に違和を感じていた。友人になりにきたのでなければ、観光でもない、あいまいな立場を自分で表現できなかったことも違和感の一因だろう。今後の展望を何も示せない私に村の若者は同調してくれた。しかし、彼への言葉も、語るそばから違和感を抱かずにいられなかった。
やはり何か違うと感じていたのだと思う。自分を自分のまま友人として受け入れてくれる村人に対して、原住民の名残をあら探しすることに。おそらく方法が間違っていたんだと思う。距離をおいて見なければならない(と思っていた)対象者と自分の距離が近くなるごとに不安になる。収穫があるのかないのかわからないのだ。懇意になりたい、仲良くしたい、そう思って中にはいれば入るほどに自分の感覚が状況に溶け込んで、ワタシとアナタの差異がわからなくなる、あいまいになる、距離が測れない。冒頭に記したとおり、他人に胸を張って見せられる「自己」なんてものはもとよりない。脆弱な足場の上に築いた「自己」は安易に崩壊し意外にやすやすと再構築できる。「自己」は完全に「他者」と一体になることは出来ない。何かを学び取って何かを取り込んで、何かを忘れ去ったとしても、そこには変わることの出来ないものが残る、それこそが自分らしさなのだと思ってはいる。思ってはいたが、実感として訴えてこないのだ。自分が適応しすぎるのか、問題意識がなさすぎるのか、まだそこまで踏み込めていないのかそれすらもわからない。
そんな中で台湾に行く気にもなれず、HISで延々ガイドブックとにらめっこしていた私は、そもそもなぜミャンマーに行きたかったのか考えた。先にあげたように友人の死はミャンマー行きを決めた後に起こった出来事である。もっと直感的にどうしたかったのか考えた。案外簡単に出てきた答えは「少数民族によるマーケット・仏教寺院・稲作につながる大きな川」この3つであった。この条件をすべて満たす場所こそラオスだった。首都には近づかない、そう決めている。国の人口の1割が集中する首都には、必然的に犯罪も他の都市に比べて多くなる。ラオスとて例外ではない。この原則に従って動いた結果がルアンプラバンなのだ。 

緊張感のうすい道中
結果からいってしまえば、危険や危機とは無縁の旅であった。これはつくづく旅行中にも思ったのだが、緊張感が欠けている。その意味するところを「旅行先が中国じゃないから・やっと旅なれた・学生時代に比べ比較的現金を多く所持している」等思いついた。おそらくは旅先がラオスであるということが一番有力だろう、中国に行くとなれば今でも完全武装で挑むだろうし、学生時代より警戒が強固になることは想像に難くない。
ではラオスに精通しているかといえば全くない。ジャーナリストによってセンセーショナルに取り上げられたベトナムに比べればひっそりと戦争の渦中にいた近代史を知ったのも帰国時のトランジットで時間を持て余し、ガイドブックの文字をひたすら追っていたときだし、正確な時差時間を知ったのも現地に着いてからだ。わたしのラオスへの発見は万事が万事こういう状態で進む、しかしこの国の人は他者を急かさない。「How did you find Laos?」そう聞いてくる。自国の世界での立場をわきまえているかのように。
2−3日あれば全体像が把握できると書いてあったガイドブックもある。その一方、建設ラッシュで街のいたるところでゲストハウスが作られ、地図にはない寺院や店が並ぶ。数年前の旅行記からうかがえる景色や人の流れとは明らかに変わっているだろう古都ルアンプラバンは、それでもやはり森林の放つしっとりとした朝露の中でひっそりしているのであった。

日常の延長としての旅
「地平はつながっている」そう書いた。素直に、大きな感動や刺激がなくても、何も発見せず、何も獲得せず、にこにこ笑っている無数のアナタを見て、自然と口元がほころぶ、笑顔になる。これがラオスで体験したことである。
大きなものにすがりつきたいときがある、人のために祈りたいときがある、慟哭しても乗り越えられないものがある、非力を知りながら虚勢を張ってしまう、糾弾することで自分の立場を忘れている。
そこでは非日常が日常の延長であることを知った。自分がここに来れたのは、忙殺され続けた日々の一幕だと言うことも出来る、ミャンマーに行けなかったからだとも今では言うことが出来る。非日常は日常なしには成立しない、しかしながら非日常は非日常であるがゆえに日常とは結節点を持たないものである。今回の旅は確実に日常の延長上にあった。
自分はこの自分のまま旅先で存在してもいいんだと思った。革新を迫られるような出来事もない。旅をする自分を肯定された気がした。その過程で、他者と関係を結んでいけばいい。宙に浮いていた足元が、着地点を見つけたようだ。そこからどこへ進むかは、また気まぐれで脆弱な己次第。
現在の答えがいつまでも私の中の根幹になるとは思わない。不満を抱く前の日々に戻るとも思わない。日々変化を重ねる自分の移り気な心情は、納得のためにより多くの状況説明の変化をも必要とする。4次元の芸術が完成するのはまだまだ先のようだ。