ふしぎ

なもんで、ごくたまに泣いてる。覚悟をする猶予だけはしっかり与えてくれていたようす、泣き虫のうちがなかんですんでるてことは。生きているってことはいつか死ぬわけで、娘3人に見守られながら逝けたということは幸せやないかな。将来そんな風に死ぬ自分を想像してみたけど、、無理ですな。息子、娘、孫、、、に看取られてって。
思えばこの人がいなかったら自分もいなかったという人が死んだのをはっきりと体験するのは今回が始めて、ちょっと遅いくらいかな。父方のジーちゃんが死んだのはうちが生まれてすぐやったし全く覚えてない。おそらく今兄の姪っ子がそんなかんじ。
高校や中学のとき体験した友達の母の死はうちにとってほんまにショックやった。死から随分と隔離された近代社会の申し子生活をまんべんなく享受していたから。死人の顔を見ただけでおびえてたように思う。以前は健康的な顔色やったの
にまったく血の気がなくなって、生という魂が抜けていった、まさにそのように感じた。これが人が物になった時間なんやと思った。現代ではその物の時間はとっても短い。すぐに焼いてしまうから。
でもうちは死んだら土葬か天葬してほしいとおもう。土葬は周知のようにそのまま土に埋めること。したら死体がゆっくりゆっくり微生物やうじ虫に食われていってうちの体は土に還元されて養分になってそこだけ植物が覆い茂るんや。天葬ゆうんはチベットなんかでやっている葬儀法。岩肌に死体を置いて鳥についばまさせる。現場はグロいかもしれへんけど、両方自然のサイクルに組み込まれるってこと。
たとえば死んだとき、コンクリートに箱詰めされて保管されるってとっても悲しいし淋しいと思う。環境と交わることで安息の地を得られるんやないあかなあ、って思うとです(ヒロシ)おじいちゃんはどう思ってたんかな。

天葬に関して。。。
http://www.sousaiken.com/ssk/world/tibet.html